第二十三話「もったいない」 |
昔々私がIEの勉強をし始めた頃、作業動作時間分析の実習で、作業中に作業者がボルトを床に落として、それを拾うと言う動作に出会いました。その時間を見落とさずに含めて分析を完了したところ、アメリカ人講師から「何故ボルトを拾うのか?」と指摘されました。「拾う時間があれば、ボルトを一つか二つ締められるではないか」と言うのです。私にはとても思いつかない発想でした。「これがIEか」と感動したのを鮮明に記憶しています。 つい最近、公共の場で水を撒こうとして水道の蛇口をひねりましたが、水が出ませんでした。水道のゴムホースがそ、収納されているスタンドの中で何か所もねじれた上に潰れているためだと発見しました。恐らく最後に使った人が、ホースのねじれに気が付かず、あるいは気が付いても気にも留めずにハンドルを回して、スタンドに巻き込んだのだと想像されました。しかも、急いでいてハンドルを早く回したためにホースがきつく巻かれてしまって、時間の経過と共にねじれが何箇所かに集中して、ホースの強度が弱い所で潰れてしまったのだろうと推察されました。 賢明な読者はここで、何か感じることはありませんか? 結果的にはホースを全て巻戻し、ねじれを補正して利用しました。潰れた箇所もゴムの弾性によって正常に戻ったように見えました。しかし、長期的にはねじれた箇所は潰れ癖がついてしまい、いずれ同様な使い方をすれば使い物にならなくなると推察されました。「もったいないな」と思いました。 ゴムホースの性質や長いホースやコード類を収納する時に発生するねじれの問題に対する知見を持っていれば、作業効率だけの観点から急いでホースを巻きとることはしなかっただろうなと思いました。「この頃の若いものは」とは思いませんでしたが、「何かが欠けてるな」と思いました。と同時に、最近の風潮である「コストを下げるために作業をできるだけ早く終わらせる」、「多少の不自然さは気にしない」、「マニュアル通りにやれば良い」、「法に触れさえしなければ、責任は追求されない」が頭を横切りました。 長い間、コスト、コストとコスト低減活動のお先棒を担いで来た私ですが、この「何かが欠けているな」の「何か」とは何だろうと考えさせられました。先輩達の言葉に「一に安全、二に品質、三に能率」があります。しかしこの標語を本気で重く受け止める勇気のある人はこの世間にそうはいません。「そんなことをしていたら、会社が潰れてしまう」が本音でしょう。「そんな会社なら潰してしまう方がよい」とは思わないでしょう。知恵さえあればなんとかなるのに、知恵を出そうとはしません。この標語は高い教育課程で脳の表面に刻み込まれますが、無意識に心が動かせられる情念ではありません。 私がねじれたホースを見た時に感じた違和感は何だったのでしょうか。それは私が子供の時から強迫観念のように植え付けられている何かでした。それはあの場で私の口から漏れた「もったいない」ではなかろうかと気がつきました。この言葉の大切さは近年他国の指導者の指摘で我が国でも評判になりました。我々が、気軽に忘れ去ろうとしていた情念です。これは単純な経済的合理性以上の意味をもっています。 「もったいない」を「好き」「嫌い」「可哀想」と同等な情念として持ってしまえば、仕事をする時に「もったいなく、ないようにするためには、どうすればよいか」と言う疑問が沸いてきます。これは必然的に「物事の原理原則を理解しよう」とする態度を持たせます。ゴムホースとホーススタンドの原理原則が分かっていれば、急いでいてもホースのねじれを取ってから、スタンドに適切な速度で巻き付けると言う気持ちが自然と沸いてきます。そして、それをし終わった時に「とても良い気持ち」になるはずです。 ボルトを拾わない知恵も、当然ボルトを落とさないようにする、落としても簡単に拾えるようにする、と言った改善も考慮されるべきですが、「ボルトがもったいない」と言う観点が加われば、後で掃除をしたり、ボルトをゴミとして棄てる時の環境負荷の増加などを考慮した、それ相応の改善案が出てきます。 何とか、「もったいない」を小さな子供の内にしっかりと脳の中心部に植え付ける教育ができないものでしょうか。 |
戻る |