インバーハウス物語
2015年1月22日
川瀬武志

この物語の前提知識を以下に述べます。
私には山田雄仁さん(外国人は彼をユウジーンと呼びます)という友人がいます。彼は国際公務員でアジア生産性機構(Asian Productivity Organization)に勤めていました。父親はある時期、日本政府の命を受け、大東亜共栄圏設置の裏面工作準備の為、東南・南西アジアの調査に、携わって居たそうです。事後、諸般の事情から父親は台湾に東洋製罐の関連事業開発を委嘱されました。従って雄仁さんは1934年から1947年まで、幼年・少年時代を台湾で過ごして日本内地に引き揚げて来ました。彼は、日本統治時代の最期と蒋介石国民党政府の初期を台湾で過ごした訳です。
歳は確か私の2つ上でした。戦後帰国して旧制中学校に入り、後に東京外語大学でインドネシア語を専攻しました。英語はネイティブです。彼は外人の血を引いていましたが、心は純粋な日本人でした。頑固なまでの正義漢でした。
私は恩師の千住鎭雄先生(経済性工学の大家)の紹介でアジア生産性機構の仕事(後述)を20年間引き受けました。その間、山田さんとは酒をよく飲みました。バーで彼はいつも必ず「インバーハウス」というウイスキーを注文していました。口が奢っている彼がどうしてインバーハウスなのかと考えたことはありましたが、好みの問題であるとして片付けていました。格別高いウイスキーでは無く、口当たりがよいので私もボトルキープの中の1本に入れていました。しかし理由は不明ですが、数年前に店頭から消えていました。
ところが最近になって、あの懐かしいインバーハウスが近所の酒屋に登場しました。山田さんもボトルキープしていたので教えてあげると同時に4本送りました。
その礼状の中身が、長い付き合いであった彼が私に話したことが無かった物語だったのです。以下をお読み下さい。文中、関さんという人物が登場しますが彼は当時のアジア生産性機構(APO)の総長(Secretary General)で、外務省で大使を歴任した気骨のある野武士のような御仁でした。彼については後述します。

川瀬さん
67年ほど前、私の中学・高校同級生・F君は小児麻痺で、手足が不自由。滑舌障害で、彼の話は誰も聞き取れなかった。幼・少年時代をすごした台湾からの引き揚げ直後で、日本内地の事情には馴染めず、全く異文化の社会に晒されて友人も出来ず、おとなしくしていた小生に、F君は親切に東京での生活様式を教えようと努力してくれた。 しかし、彼の言語は、当所、ほとんど理解不能。彼は、顔をしかめながら回らぬ舌で渾身の力で声を振り絞って、東京での生き方を説明して呉れた。そして段々、彼の話法にも慣れ、言わんとすることが分かるようになって来た。不自由な手で鉛筆を握り、金釘流の文字と絵で口頭説明を補足。時には、益々わからなくなったが、彼の親切さと、台湾から引き揚げて来た貧乏な田舎者を助けようとの努力は痛いほど胸にしみた。頭の良い奴で、代数や理科・化学に強く、色々な勉学の内容を教えてくれた。 当時のルールでは、五体不満足の彼は大学の入学試験は受けられず、大森にあった金物屋の家業を彼なりの努力で手伝った。経営者だった父親が亡くなり、独りっ子の彼が家業を継いだが、機動性に欠ける彼は、一生懸命、孤軍奮闘したが上手く行かず、店じまいとなった。久し振りに彼と会った時、「越し方行く末」の会談で、将来の相談を受けた。1970年頃の事だった。
APOで忙しい時期だったが、ある日、関・事務総長の誘いで一杯飲んだ時に、会話中、「埋め草」に小児麻痺の同級生の話をしたら、関さんは異常に興味を示し、「そうゆう友達には、協力しろ!」と言って、並行輸入の可能性を示唆して呉れた。丁度、「パーカー万年筆」の並行輸入問題が法的に解決した事もあり、関さんは日本に入っていないスコッチウイスキーを考えたら、とのアドバイス。在英日本大使館勤務をしていた頃、飲んでいた「インバーハウス」を勧めた。「屁みたいなサケだが、オレは好きだった。」とのお墨付きで、級友をケシカケて並行輸入の手続きを手伝った。
名の知られていないインバーハウスは、当初、何処の酒屋も相手にしてくれなかった。これまた、関さんの戦略指導で、「メージヤーホテルのバーで、インバーハウスを注文して、品物を扱っていなければ、置くように頼め。時々、そのバーに寄ってチェックすれば、少しずつ、名が知られて来る。」当時、関さんがメンバーだったエリート集団の「霞が関クラブ」に彼が話して常備するようになった。帝国ホテル、プリンスホテルやニューオータニ等を渡り歩いてPRした。ホテルオークラ内のそれぞれのバーに置いて貰っていたのはご存知の通り。慶應大学出身の新日鉄の友人を通じて、銀座七丁目にある同窓生倶楽部"Blue,,Red and Blue・B.R.B Club"にも入れて貰った。 この作戦は功を奏し、F君の事業は、まぁまぁの成功を収めた。後、彼は商権を大手の酒類のディストリビューターに譲渡して安定した生活を営んでいた。
しかし、90年代半ば、彼は大森の歩道で、夜中に車にはねられて、亡くなってしまった。海外出張中だった小生は、事後、線香を上げに行った彼の家で、年老いた母親から涙ながらに彼の最期の様子を聴いた。母親は、「山田さんの骨折りでインバーハウスの輸入で成功した。貴方への恩には息子は勿論、私も深く感謝しています。」と言って泣き伏した。堪えられなかった。仏壇にはインバーハウスのボトルが置かれてあった。
インバーハウスをホテルオークラのバーで独り嗜む時には、彼が一生懸命、当方が東京生活になれる様に指導努力してくれたことを想い、涙が流れます。オークラの旧館も、近々、改築されます。チビリチビリ飲んでいたボトルキープのインバーハウス・2500番も底を着いて来ました。
インバーハウスの薫りと味は、恐らく、私だけしか分からないノスタルジアとセンチメンタルな時間を与えてくれます。
私の悪いクセで前置きが長くなりました。
インバーハウスをご恵送いただき、本当に有難う御座いました。
駄文を連ね、失礼の段、お許しください。
      やまだ


関さんに付いての追補(IE問題の解決執筆裏話)
関さんがタイ国大使であったとき、当時のアセアン諸国訪問で、佐藤栄作総理大臣がタイ国を訪問しました。次の訪問国は南ベトナムで、まだ、ベトコンとアメリカが戦争状態にある時でした。関さんは、隣接国の駐在大使として、日本の対東南アジア諸国との将来の関係を考え、この時点で首相の南ベトナム訪問を控えるべきだとの意見具申をしました。しかし、聴く耳を持たない首相の傲慢な態度が気に入りませんでした。タイ政府主催の晩餐会からの帰りの車の中で関さんは奥さんに、晩餐会で佐藤首相が隣に座っていた女王様に対して取った態度が無礼であったと話したそうです。この内容はすぐに同乗して居た首相補佐官を通して佐藤首相に通じてしまいました。
(ちょうど、首相が南ベトナム・サイゴンに到着した日に、昭和天皇が崩御され、国葬その他の準備で即刻帰国する事になった為、実質的な会議は開かれずにアセアン諸国訪問は、タイ国のみで終わりました。)
国葬が終わり、落ち着いた頃に首相は関大使の言動を思い出し、関さんは即刻タイからリコールされ、約一年間、本省で何の役職も無い「完全閑職」に廻されました。何度か辞職願を外務大臣に提出したが、同期入省である牛場事務次官の諌めで踏み止まり、牛場さんの計らいでスペインに大使として赴任し、その後、メキシコ大使となりました。この話しの本筋部分は本人から私が聞いて確認した話です。
アジア生産性機構は日本にある数少ない国際機関の一つでしたが、予算の大半を日本政府が拠出している関係で総長は日本人が選ばれていました。歴代の総長達の多くは、外務省からの天下りで、必ずしも国際機関でのマネジメントに通じた人達ではありませんでした。そこへあの侍気質の関さんがメキシコ大使から転任してきました。 日本政府に次ぐ分担金を負担していたインドが歴代の総長が日本から選出されていることに不満でした。新任の関さんに対して早速、日本で開催しているIEのセミナーについて噛みついてきました。セミナーの内容がアメリカ生まれの手法の紹介でしかなく、しかも講師のレベルが低いと主張したそうです。関さんは早速善処すると約束して、山田さん経由で千住先生、川瀬と御鉢が回ってきました。関さんは私に「俺は腹が立っているんだ」「インド人にギャフンと言わせる計画を造ってくれ」と言われました。
私は面食らいました。APOも知りませんでしたし、国際機関でやっているセミナーの話も聞いたことがありませんでした。早速該当するセミナーの内容を調べたところ、早稲田の先生が翻訳本で勉強をしたIEの手法を、通訳を通して説明していました。インド人には英語の本の受け売りは馬鹿にされるのは尤もでした。早速、東工大の木村幸信さん、仲間の小野桂之介、中村善太郎、柴田典男とチームを作りました。
その結果、我々が考えた事は、手法中心を止めて、問題中心にし、日本的IEの実践過程を組織論として話し見学させることにしました。見学以外は英語で教えることにしました。見学先には私がコンサルティングをしていた企業の好意に甘えて、誠意溢れる対応をしていただきました。
当時、問題解決という観点から纏めたIEの本など存在せず、カリキュラム作りには苦労しましたが、以後インドは文句を言わなくなりました。問題はインドの大学教授が出席したいと言ってきたことでした。彼らが出席することは楽しいことでしたが、彼らがクラスでしゃべりまくり、クラスのマネジメントが出来なくなる恐れがある事と、他の国の研修生との能力差を考慮して、overqualifyを理由に断りました。
お陰様で私は20年掛けて「IE問題の解決」という本が書けました。関さん有り難うさんでした。
川瀬武志

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